1. はじめに |
現在私は、大学院人間科学研究科 (生命科学専攻) でバイオエシックスを専修しています。時折、バイオエシックスをして所謂「医療」のみの批判に専心する学問であるという声を耳にしますが、それは全く偏った見解であると考えられます。何故ならバイオエシックスとは、そうした「医療」への批判をも包含した「あまねく社会の全ての問題」にアプローチして然るべき性質の学問であると考えられるからです。
確かに、医療は人間の生命に直接的に深く関わる知的営為、いわば社会と個人の「生命を介した」直接交流の機会であり、そこに焦点を合わせ、問題を提起することは当然バイオエシックスの主要な役割の一つです。
しかしながら、何よりもバイオエシックスを展開させる上で重要なのは、医療をも包含する全ての社会的事象から生命の諸相にアプローチし、そこから何らかの広範な社会的合意を導き出し、実際の「公共政策」として実現させる「意思決定のプロセス」であると改めて私は実感しています。おおよそ学問なるものは全て、主体である人間に還元される性質を、第一義に有すべきであると考えられるからです。そして同時に、こうした学問的所産の社会への還元は、全ての人々の多様な考え方によって、それら全ての価値観への恩恵として昇華されるべきではないでしょうか。
それを実現させ得る為には、様々な学問領域の専門が一同に会し、その知識・経験を一定の倫理的バランスに基づいて融合させ、社会に還元させる方策が最も望ましいと考えられます。その特質が顕著に表れる学問の一つにバイオエシックスが挙げられるわけです。
従って、その理念は人間の尊厳の主張に根ざした人権運動、そして公共政策づくりにあり、よって、バイオエシックスとは、まさに未来を切り拓く新しい価値観と社会的合意を創り出す新しい学問分野、延いては「市民運動」と捉えることが可能なわけです。
現在、私は卒業研究であった「バイオエシックスの視座から見た日米医療行政の比較的考察」の内容をさらに展開し、日米の歴史的・文化的差異からグローバルな観点での本質的な医療の在り方を考え、その大前提としてのバイオエシックスの理念の必要性、普遍性について考えています。
また、上述したようにバイオエシックスは単に医療のみを問題化する学問なのではなく、既存の学問、ひいては社会全体の秩序ある統合をもたらし得る学問であるとの見解から、現代の社会体制、とりわけ社会保障の問題を中心とした実際の行政そのものへのバイオエシックスの適用化、具現化の可能性について、これからも研究を続けていく所存です。
さて、我が国では近年、少子・高齢化の進展、経済基調の低成長化に伴い、行政における社会保障の役割の比重は高まる一方です。
国民が健康に暮らしていくことの根幹にある社会保障の諸問題に対して、専攻分野であるバイオエシックスを社会全体の合意の基に如何に生かし、適切な方法論をもって公共政策として実現させていくか、これが大学院における私の一貫した研究テーマです。
2. 現時点までの研究活動から見い出された問題点の概要 |
学部当時の卒業研究において、私は日米の医療行政をめぐる諸問題をバイオエシックスの視座から比較検討し、それぞれの問題点を探りました。
米国における医療行政の検証については、特にDHHS (米国保健福祉省) の各機能と役割に着目、日本における検証に際しては、特に高齢化社会への対応、それに伴う健康保険の問題に着目して考えてきました。
とりわけ、良くも悪くも現在の医療問題の世界的動向の趨勢を握る米国の社会保障を背景とした医療について考察しました。
これまでに私が抱いた日米両国の「社会保障」の背景に限った医療の「印象」は次の通りです。すなわち、米国の医療をめぐる社会保障の背景には、個人の自律が第一義の原則として本質的に尊重され、国家は基本的にそれをサポートするのみのスタンスが見え隠れします。一方、日本は国家の決定によって個人が活かされ、自律よりも連帯を重んじる傾向が見受けられます。
従って、それぞれの問題点の概要を敢えて簡潔に述べれば、以下の通りになります。
日本の問題点;現在の社会保障を背景とした医療制度は、本来自己責任で対応すべき需要への過剰な対応が生じていないでしょうか、また、逆に制度全般の効率化を推進するあまり、利用者の立場を踏まえた医療の質の低下をもたらす危険はないでしょうか。
米国の問題点;国民皆保険制度が基本的に存在しない米国においても現在、医療費高騰が財政赤字に及ぼす影響を重視する観点から、様々な対策が講じられつつあります。具体的には、公的医療制度からHMO (Health Maintenance Organization ; 集団保険の健康維持組織) 等の民間の医療制度へのシフトが進められようとしていること等が挙げられます。しかし、HMOでは財政効率化のための医療費の支払い総額規制のため、医療の質自体が落ちてしまう危険はないかとの懸念が根強く存在しています。
つまり、これらのことから、自助自決の精神が浸透しているはずの米国においても我が国同様、「�医療 (社会保障の問題を背景としている) 制度の効率化」とそれに伴う「�医療 (サービス) の質の確保あるいは向上」という2点は重大な懸案事項となっているものと考えられるわけです。
このように考えれば、日米両国に共通した社会保障及び医療の問題として「効率と質の両立」への懸念が推察されるわけですが、これらの諸問題に対する解決の糸口として、共助の精神なるものが考えられます。これは単なる倫理的発想から提起する概念ではありません。「共助」なる概念は、如何なる国家の枠組みをも問わず、現行の全ての公共政策に対する問題解決の発想を孕むものではないでしょうか。
従って、公助、自助どちらか一方だけを強調するのではなく、国民の健康及び適切な医療の質の確保を国民全体の共同負担で行うという「共助」の考え方が今、改めて着目されるわけです。この発想によって効率と質の調和を図り、政策上の公私の役割の適切な均衡をとる上での指標を考えられないものでしょうか。
具体的には、国民の合意を得られるべく、強制的な負担を伴う「公的分野」と個人の自己決定による「私的分野」の役割分担の整理、及びそれを行う上での指標、さらに、それらの倫理的な妥当性について考えることが有効な方法であると思われます。
3. 米国の医療をめぐる社会保障制度の問題の概要 |
ここで改めて、現在の米国の社会保障制度の問題について考えてみたいと思います。
近年、米国には2つの大きな問題が浮上してきています。1つは3500万人から3700万人と言われる全くの無保険者の存在であり、もう1つは下表1に示されるような世界最高の医療費の高騰です (広井良典,『アメリカの医療政策と日本』, 勁草書房, 1996.)。
/ | 日米の医療費の対GDP比: % |
米国 | 11.8 |
日本 | 4.9 |
周知のように米国には、貧困世帯医療と老人医療を除けば、公的な健康保険制度がなく、一般的には私企業である保険会社がこれを供給しています。普通は雇用者が保険料の一部か全額を払い、従業員が一部か全額免除で、この恩恵を受けています。治療費のどの部分やどの程度を保険がカバーするかは、保険会社によって千差万別です。しかし、「どの程度の保険が供給されるかという問題=どのくらいの賃金が払われるかという問題」という図式が成り立つほど、保険の供給は重要な雇用条件を形成しているといいます ( Madison Powers, "Justice and the Market for Health Insurance", Kennedy Institute of Ethics Journal, 1(4), 1995, pp. 307-323. )。
その背景には、医療保険に関して国が介入することについての基本的な消極姿勢があります。第二次大戦後、ルーズベルトにかわって大統領に就任した民主党のトルーマンは、1945年に国民皆保険の積極的支持を表明しましたが、時のアメリカ医師会は「社会化された医療 (socialized medicine)」の弊害を訴え、「政治を医療から排除せよ」と広範な反対キャンペーンを展開しました。その結果、医療保険制度は最後まで実現するに至らなかったわけです。それ以来、この方向はアメリカにおいて基本的に現在でも受け継がれ続けています。
最近では1992年の大統領選挙戦において、ビル・クリントン大統領が「国民皆保険制度の施行」を公約に掲げましたが、これはGDPの14%を占める健康医療サービス産業を国家管理下に置く、露骨な官僚主義的国家統制であるとして共和党に反対され、結局1994年の夏に廃案になりました。
これらの問題は、実際にHealth Care Crisis (医療保障の危機) として現在でも語られ続けているアメリカ政府の懸案政策課題です。しかし、その一方で他国に比べてアメリカが圧倒的に力を注いできた分野があります。それは「医学・生命科学研究 (biomedical research) の振興」政策です。圧倒的な規模を誇るNIH (米国立保健研究所) に代表されるように、アメリカ政府は医学研究に対して莫大な国家予算をつぎ込んできました。事実、医学研究が政府の研究開発予算に占める割合 (1987年) はアメリカ10%、イギリス4%、フランス4%、日本3%と、アメリカが群を抜いて大きいものです。
つまり、アメリカの医療政策は大きく2つに分けて「公的医療保険への消極姿勢」と、他方での「医学研究への公的援助に関する積極姿勢」にパターン化されるわけです (広井良典,『アメリカの医療政策と日本』, 勁草書房, 1996.)。
そもそも、戦後アメリカの研究振興政策を基本路線を描いたのが、バネバー・ブッシュが1945年に発表した「科学:その終わりなきフロンティア(Science : The Endless Frontier)」という大統領宛レポートでした。
ブッシュはもとMITの学部長で当時カーネギー・インスティテュートの学長であり、政府の科学技術政策に大きな影響力をもっていましたが、この大統領宛レポートでブッシュは「疾病に対する戦争 (war against disease)」を重要な課題として挙げ、政府による生命科学・医療分野での研究開発への支援がアメリカ国民の健康水準の向上に大きく寄与していくものであると訴えました。
これを受けて、政府は医学研究への助成を急増させるというかたちで、「国民の健康水準の向上」のための政策を選んだのですが、これはアメリカ医師会をはじめ医療関係者にとっては、最も政府による介入が少ない方式であり、その方向は支持されました。
これ以降、議会は医学・生命科学に対しては極めて好意的な姿勢を示し、積極的に予算を配分していくようになりましたが、依然として社会保障における経済的制約は厳しく、真の意味での国民の安寧と幸福が保障され得るシステムが実現されているとはいえない状況です。
このような社会的背景において現在、米国では健康保険市場における多くの欠陥を排除するための特別な改革が議論されており、医療を利用する際の保険に関する幾つかの障害が再検討されて続けています。
米国において、このような実質的な改革を除いても、その他の幾つかの目標、例えば、医療を利用する消費者の選択の拡大、医療経費の節約実現等の課題が社会全般にわたって促進されていない事は以前から示唆されていました。
米国の医療行政の見直し、特に財政管理システム改革のための提言は最近数年、数多くなされてきましたが、医師、患者、保険会社、組合、そして大規模な法人を含む社会の大部分は、全市民の相当数が医療を利用することを事実上制限してしまう経費増加の問題に不満を表明しているといいます。
しかしながら、少なくとも「観念的原則のレベル」では、広範な社会的合意が医療を利用する際の問題において明らかになっているようであり、その社会的合意の代表的な表現は、1983年の医学・生体臨床医学及び行動に関する研究のための大統領委員会報告にも現れています。
すなわち、当委員会は「公正な医療の利用には、全ての市民が過度の負担をかけられることなく、適切な水準の医療の利用を保障され得ることが必要である」という社会的誓約を承認したのです ( Madison Powers, "Justice and the Market for Health Insurance", Kennedy Institute of Ethics Journal, 1(4), 1995, pp. 307-323. )。
しかしながら、多くの米国民にとっては、たとえ幾つかの広範な合意があったとしても、それは公共政策の選択項目を評価するには非常に曖昧なものであり、役立つものではないと捉えてられているようです。そして何よりも、3500万人から3700万人近くの国民が健康保険を受けていない現状について、道義的に受け入れられない事実であると多くの米国人が認めながらも、医療そのものにおける個々の解決事項 ─ 特に財政管理の方法、政府のその役割、そして利用される保障範囲の問題等の改革に対しては、依然として妥当なる一致をみていないのです。
一方、米国のみならず我が国においても、本質的には「医療は、一層公正に利用されるべきである」という政策上の視座は確固として存在しており、これに基づく国民一人一人の主張から成る社会的要求によって、政策提言の評価規範が示唆されるものであると考えられています。昨今の情報公開に関する論議も、こうした価値規範が生み出されるべき社会環境を整える意識によるところが大きいと思われます。
こうした国民総意の合意形成のプロセスの問題を考えれば、高齢者や障害者等のために、より健康で経済力のある人々がどの範囲まで援助すべきか、あるいは、教育や衣食住等の福祉の諸問題に対して、乏しい公共の資源をどのように行使していくべきかといった懸案をも併せて複合的に考慮していく必要が勿論あるでしょう。
なお、米国において現在広くなされている健康保険市場改革のための議論は全て「市場改革は医療の普遍的利用の保障を実現させることができる方法」という決定的に共通する前提をもっているものです。
しかし、先に示された大統領委員会声明は、「全ての国民のための、より公正な医療利用の在り方への責務」を表すものですが、医療の普遍的利用という目標が達成されさえすれば、他の政策目標を無制限に犠牲にしてもよいと述べているわけではありません。
こうしてみると、昨今の米国の医療財政システムの構造改革においては、「医療の普遍的利用の保障」を充足させるという政策課題が再検討されている事が理解できるわけです。同時に、米国では健康保険給付金計画等の社会保障の問題をも包含した「全般的な経費節約の発想」に拠りながらも、利用する消費者側の恩恵として、限られた医療資源を如何に活かすかついての取り組みがなされているのです。この点において日米両国の現行の医療政策には、各々の社会保障システムやそれが生み出された社会文化的背景に差はあれど、理念的に相通じるものが垣間見られて興味深く思われます。
4. バイオエシックスと医療をめぐる社会保障 |
以上のように考察をすすめてみると、バイオエシックスにおける「公正」の視座からの効率の良い医療、すなわち「偏りのない医療」が求められ、同時に「平等」なる行政規範が改めて問い直されているものと考えられるわけです。
従って、公正で平等なる行政とは、本質的に単独の政策分野が所管する資源を、ただ均等に配分していくものではなく、その他の政策分野が扱う全ての公共的資源をも包含して、あまねく全国民に享受させていくものでなければならないと考えられるわけです。それによってはじめて、国家の医療行政は普遍的にその「恩恵」を、主導者である全ての国民に「公正」に還元していくことが可能になると考えられます。
日米両国のいずれにおいても、医療の普遍的利用の社会的な重要性を意識して考えれば、国民の自由なる医療の利用を制限してしまう専制的裁量の主因を如何に正確に見極めるかどうかで、今後の医療の在り方は大きく変わっていくものであると考えられます。
それ故に当然、年齢、人種、性、健康状態、遺伝因子構成、あるいは弁済能力といった医療を利用する上での制約は、バイオエシックスの立場から断じて反対すべきものと考えられます。
同時に、医療は他の同様に重要なものである社会的、経済的目標、あるいは他の不公正な結果の犠牲によって利用されるべきではなく、とりわけ、医療を保障するということは、もし、その代償として機会の均等、あるいは重要な側面である個人の「自律」といった価値規範を脅かすものならば充分なものとは言えません。
従って今後、バイオエシックスの観点から医療政策を一層効果的に立案していくには、自律、恩恵、公正、平等といった幾つかの重要な価値規範のうちの一つのみを重視して検討するのではなく、これら全ての概念を重層的に網羅させた上で、その政策観念からの示唆に耐え得る行政を行っていかなければならないと考えられます。
次章においては、今まで考察してきた日米両国の医療行政が孕むそれぞれの問題点から、主に我が国の現実の社会情勢における医療行政の在り方、さらに理想的な医療政策とは如何なるものが望ましいかについて、バイオエシックスの視座から検討したいと思います。
5. バイオエシックスの視座から見た医療行政機構の在り方について |
何時でも何処でも誰にでも、必要な医療を普遍的に提供していくことは、医療行政の大きな目標の一つです。これは何も特定の国家に限った医療政策課題であるとは言えないでしょう。
これまで我が国においては国家や各地方公共団体、一方、米国においては連邦政府や各州・地方の公共団体によって各種の施策が実施されてきましたが、医師の確保、医療施設へのアクセス等、改善すべき課題は依然として多く残っています。
現在の米国で行われている医療保険制度改革は、これから未来に向けて発展していく「社会制度全体の構造改革」の除幕に過ぎないものです。そして、我が国においても昨今、財政と競合する制約的な「医療の質」の在り方が社会保障の問題を背景にして問われ始めています。例えば、アルツハイマー病の患者には何ら公的な保障制度はなく、現状に即した改善策を早急に講じていかなければならないでしょう。
今、最も大事なことは医療制度の根幹となる医療「提供」の体制から考えていかなければならないということです。
特に、高齢化の急速な進行等の要因によって、経済的な制約が生じている社会情勢においては、医療資源の配分に当たっての「質」の妥当なる分配と市場原理を如何に組み合わせるか、といった視点から医療提供体制を考えていくことが求められており、その中で経済的で質の高い医療への達成動機が働く行政機構の創出を考えていかなければならないでしょう。
例えば、予算の枠を設定して、保険者と医療機関の間で医療サービスの選択肢を可能な限り数多く用意することで、健康医療管理を国民自身の選択に委ね、国家がそれを支援していく方式の制度づくりや、DRG(疾病別の定額制)の導入による医療報酬体系の効率化等によって、公正な医療の実現の可能性は高まるものではないでしょうか。
また、現行の老人医療の在り方が各保険者の大きな負担となっている問題については、約27兆円もの国民医療費を誰が負担するのかという点も含めて、従来のように保険制度の枠組みの中のみで偏った改革を行っていくのではなく、他の行政機構、各関連組織、各地域公共団体等が連携して取り組み、そこから社会的合意に結び付けていく政策を行っていくべきではないでしょうか。
医療行政機構の抜本改革の検討については、国民医療費の使われ方の側面(診療報酬体系や薬価制度等)と、国民医療費の財源調達の側面(老人医療制度や、その拠出金を出している医療保険各制度の在り方)の需要・供給双方の利益のバランスについて考えていく必要もあるでしょう。
しかしながら、あらゆる種類の社会的弱者を公正に扱う観点から、医療経済上の収支バランスを考慮するのみならず、まずは取り扱われる「医療の質」のバランスについて取り組むという発想を行政サイドが持つ必要があるのではないでしょうか。
特に、通常の老人保健福祉施設では対処し得ない問題を抱えた、痴呆症患者をはじめとする長期入院患者等の受け皿となる施設は、全国的にも十分に整備されておらず、さらに拡充を進めていく必要があります。長期入院患者は,現行の診療報酬体系では採算が合わないため、病院からの "追い出し" を受け易いと言われています。また、こうした患者を受け入れる病院の中から、大阪・安田病院事件 (1997年7月28日摘発) の如き、質の低い医療を提供することで利潤を得ようとする医療施設が多く出てくる危険性についても十分に反省して考慮する必要もあります。
こうした長期入院の問題に関連した入院期間の短縮については、退院した人の受け皿の問題も非常に重要であり、福祉や介護に対する社会保障における政策課題も含めて、総合的に考えていくべきでしょう。とりわけ、自宅と病院を中継してADL (日常生活動作) を促進し得る地域型の保健施設の拡充は、ともすれば社会復帰が困難になる怖れのある長期入院患者のノーマライゼーション実現の為にも積極的に推進していく必要があると考えられます。
こうした制度の推進体制には当然の如く、莫大な経費がかかります。懸案となっている医療の財政難の問題に際しても、全国の各医療機関が現在の診療報酬体系で本当にやっていけるか否かを早急に見極める事が必要です。そして、十分な設備やマンパワーのある国立や自治体の病院の収支バランスを公開し、人件費等の制約された医療資源需給の問題に「質」を維持しつつ、場合によっては更に高い質を目指して診療報酬体系がそれに応えていけるよう、あくまでも倫理的理由に基づく多角的推進体制 (財政の改善のみを至上目的とせず、あくまでも人間主体の経済推進活動) を医療行政の中に組み込んでいく必要があるのではないでしょうか。
これに関連して、医療行政における「価格メカニズム」は、医療資源の配分を誘導する重要な道具であることも認識し、価格をむやみに積み上げることで医療費を生み出そうとする独占的な価格決定のプロセスは早急に改善すべきであると考えられます。あくまでも利用者本位の価格とは如何なるものかを問い直し、改めて消費者主体型の市場運営によって資源の需給を促進させていく手段を考えていかねばならないでしょう。
さらに、医療費のコスト削減の問題については、病院や医師側から自己責任をもって積極的に自らの技術料とコストとの差額を公正に作り出す方法が本質的には望ましいものです。こうした医療従事者自らの「自覚」によって、医療機関の効率的な行動が広く社会に示されることが理想的であると言えます。
こうした医療管理態勢が正常に運営されていないようでは、国民が十分な医療を受けられるはずもないということを十分に医療供給者側は認識し、翻って医療消費者側の立場に立って彼らが望むものを的確に捉えた上で、これからの医療システムの在り方を考えていく必要があると思われます。
つまり、医療行政上の原点は、あくまでも利用者側の恩恵に起因するところの全てのニーズにあり、これに柔軟に対応し得る医療システムを構築していく事こそ、理想的な医療行政への第一歩となるわけです。
この観点からも、医療における「技術」を評価するに当たっては、適切な評価機関を設けると同時に、それを患者やその家族が主体的に評価を出来るようにすべきであり、専門的なことでも最大限情報公開されることが当然必要となってきます。診療を受ける側に理解し易い医療制度、特にレセプトやカルテ等の行政サイドからの情報公開を積極的に推進させる制度を創設していくことが肝要と考えられます。
そして最後に、何よりも医療費の高騰を本当の意味で解消していくには、国民一人一人が疾病に罹らない事、あるいは「無病息災」ならぬ所謂「一病息災」の考え方から病気と上手に付き合っていく事が最も大切なプロセスといえるでしょう。この観点から、生活習慣病等の予防と対策のための、いわゆる「かかりつけ医」の制度を地域単位で拡充させていくことは、医療行政上の長期的展望から考えても極めて有効なことであると考えられます。我が国では近年、こうした予防医学・疫学的な医療政策重視の観点から、従来の我が国の医療の概念にはない新しい形の医療制度の拡充が求められています。
このような疾病予防・健康促進型の新しい政策観念に基づく疾病の一次予防及び二次予防を重視した公的支援の制度作りの展開は、国際的にも今後一層強く望まれる事でしょう。
6. おわりに |
以上、米国の医療行政を併せて考慮しつつ、我が国の昨今の医療行政の問題点、医療の在り方について述べてきました。しかし、ここで注意しておかなければならない点があります。すなわち、財政的な価格体系のみから一概に医療を考えることは極めて危険な発想であるということです。
医療を提供する側も提供される側も双方、医療や保険システムにおける経済観念のみでは、その主役であるべき人間の幸福と安寧は達成され得ないということを大前提として認識しておくべきでしょう。医療システムにおける価格のみの公正は真の公正にあらず、「効率化」の適用範囲を無制限に拡充していくことで、場合によっては医療の質のレベルが低下してしまう悪循環には充分注意を要するところです。
健康保険をめぐる問題においても当然、米国の如く自己責任を追求する社会に一概に変容しさえすれば、全て解決するというわけではないでしょう。
あくまで米国社会に浸透している「自律の市民精神」を、我が国の行政にも公・私両サイドから適切に取り入れ、生かしていくことが肝要と考えられます。ここから更に、我が国特有の国勢に即した社会づくり ─ 個々の単位から平等で公正なる連帯、そして共助・共生の精神に基づいて恩恵を生み出す地域社会を創設していく事こそ、我が国の医療行政としてのバイオエシックスの具現化といえるのではないでしょうか。(終)
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
Madison Powers:"Justice and the Market for Health Insurance", Kennedy Institute of Ethics Journal, 1(4), 1995, pp. 307-323.
Robert M. Veatch, and Branson, Roy, eds.:Ethics and Health Policy, Ballinger, 1975.
Tom L. Beauchamp, and James F. Childress, eds.:Principles Of Biomedicalethics, Oxford University Press, 1994.
インターネット参考URL;
厚生省:http://www.mhw.go.jp/
厚生省の最近のトピックス:http://www.mhw.go.jp/topics/index.html
厚生省報道発表資料:http://www.mhw.go.jp/houdou/list.html
厚生省関係審議会議事録等:http://www.mhw.go.jp/shingi/index.html
厚生省統計情報:http://www.mhw.go.jp/toukei/index.html
日本医師会:http://www.med.or.jp/
社会福祉・医療事業団 (WAM):http://www.wam.go.jp/
米国保健福祉省 (U.S. D.H.H.S.):http://www.os.dhhs.gov/
米国立衛生研究所 (NIH):http://www.nih.gov/
米国食品・医薬品局 (FDA):http://www.fda.gov/
HMOグループ:http://www.hmogroup.com/
米国医師会 (AMA):http://www.ama-assn.org/
ケネディ倫理研究所 (ジョージタウン大学内):http://adminweb.georgetown.edu/kennedy/